奄美群島の島々を縁取るように発達しているサンゴ礁。奄美西部を流れる温暖な黒潮の影響で、世界的にも高緯度の海域に位置しています。外洋に面しているサンゴ礁のほか、海峡内や湾奥など、内湾性のサンゴも多く、それぞれの環境に適した多様なサンゴが生息し、造礁サンゴだけでも約300種が分布しています。奄美群島において、サンゴに大きなダメージを与えたものが、オニヒトデ(Acanthaster palanci)の大発生です。オニヒトデは体表を毒棘で覆われた大型のヒトデで造礁サンゴを食し、度々大発生しては各地でサンゴの壊滅を引き起こしてきました。大発生自体は自然現象といわれていますが、近年は長期化や慢性化もみられ、人為的な影響も示唆されています。
奄美群島では与論島で大正時代(1912〜26年頃)、1939〜40年頃、1950〜51年頃にオニヒトデの大発生の記録があり、奄美大島では1955年頃に笠利半島や瀬戸内町海域での大発生の記録があります。1969年には、沖縄島中部西岸の恩納村沿岸で大発生が始まり、1970年末には、沖縄島のほぼ全域のサンゴが食害を受け死滅しました。オニヒトデは数千万個の卵を放卵し、幼生は海流に乗って広域に輸送されます。沖縄島の大発生に由来すると思われるオニヒトデ幼生が大量に輸送され、奄美群島において1973年に与論島で大発生が始まりました。
与論島は1972年の沖縄日本復帰まで日本最南端の島で、1970年代の離島ブームで人気を集めました。そのような中、貴重な観光資源を死守しようと奄美群島で初めて行政によるオニヒトデ駆除が行なわれました。奄美群島海中資源保護協議会のオニヒトデ駆除数統計によると1973年度の与論町における駆除数は309,000個体で、それ以降も奄美群島でこれほど大量のオニヒトデが駆除された年はなく、まさに異常事態であったと考えられます。その後、与論島での駆除数は1974年度216,818個体、1975年度 92,041個体と徐々に減少しましたが、駆除数が 1万個体を下回ったのは、1984年度のことで、2000年度にやっと駆除数は1,000個体を下回りました。与論島においては、長期間、慢性的にオニヒトデ大発生が続き、餌であるサンゴの減少に伴い、オニヒトデも収束していきました。
1974年には、瀬戸内海中公園においてもオニヒトデの大発生が始まり、1980年度の駆除数91,602個体をピークに大発生は1980年代後半まで続きました。1976年には奄美大島の笠利半島東海岸海中公園と摺子崎海中公園でもオニヒトデ駆除が始まり、摺子崎周辺では、1982年度の6,250個体をピークに1989年まで毎年1,000個体前後が駆除され続けました。笠利半島東海岸においても、同じく1982年度の6,418個体をピークに1989年度まで1,000個体以上が駆除され続け、一時期減少しましたが1993年に再び増加し、慢性的に局所的な大発生が続きました。
1998年には、奄美大島において大規模なサンゴの白化現象が発生し、裾礁が発達している中北部の礁原のミドリイシ属のサンゴ(枝サンゴ、テーブルサンゴ)の殆どが、白化し死滅しました。奄美大島中北部のリーフ内では、未だにサンゴの回復がみられない海域があります。
奄美大島南部の大島海峡や島嶼部では潮通しが良く、1998年の白化現象による影響が比較的少なく、広範囲にサンゴ群集が生存していましたが、2000年から瀬戸内町と宇検村でオニヒトデが大発生し、南部のサンゴ群集は壊滅状態となってしまいました。その後、中北部では2005〜2008年に大発生があり、奄美大島全域で多くのサンゴが死滅してしまいました、現在大発生は収束し、サンゴは回復傾向にあります。
奄美群島海中資源保護協議会では、奄美群島国定公園海中公園地区でのオニヒトデ駆除が実施されてきましたが、奄美群島サンゴ礁保全対策事業では、2004年から海域公園地区(旧海中公園地区)にとらわれず、全市町村でサンゴ保全海域を設定し、サンゴ保全を目的としたオニヒトデ駆除やサンゴ礁モニタリングを実施しています。